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災害論序説」加藤尚武(京都大学名誉教授)
 その1、原子力発電の事故について

 その2、原子力発電事故とリスクコミュニケーション
 その3、復興論 災害からの立て直しについて  

 千葉大学教授、京都大学教授、鳥取環境大学学長、東京大学特任教授等歴任。京都大学名誉教授。生命倫理学・環境倫理学を中心に応用倫理学に関する多数の著作を出版。


災害論序説――その1、原子力発電の事故について

 災害について論じた哲学的な著作は、リスボンの地震(1755.11.1)を論じたカントの啓蒙的な三論文『地震論』(1756)等、『オプティミズム試論』(1759)とヴォルテールの小説(バーンスタインのオペラの原作)『カンディード』(1758)が代表的なもので、カミュ『ペスト』(1947)をそこに加えたとしてもきわめて少ない。カミュ『ペスト』から鈴木牧之『北越雪譜』(1842)の冷静・沈着の精神的態度を思いおこしてもいい。これと対照的であるのは「災異」としてとらえられ天の譴責・警告であると論ずる「災異説」「天譴説」であって、石原慎太郎の「天罰」発言も、この系譜に属する。中国の漢代の董仲舒(176-104BC)の名とともに知られている。日本の文化の中にもさまざまな軌跡を残している。これに対応する西洋思想としてはアナクシマンドロス(610-540BC)が挙げられ、その影響はハイデガーにまで及んでいる。その影響のかすかな痕跡をヒッチコックの映画『鳥』の原作、ダフネ・デュ・モーリア(1907-89)の作品にとらえることもできる。これらの著作のなかで正否を問われている中心的な観念形態は、「天の変異は人の心の不正と呼応する」と表現することができる。
自然の根元的な規則性と人間世界の正義・道義が呼応するということの吟味は、倫理学的な自然主義の議論の一部である。

1、予防のコスト原則
現代的な災害論は、異なった確実性をもつ自然科学領域の知識を組み合わせて、安全を技術的に確保することの効率性の吟味が中心となる。安全性と効率性は逆相関になっているので、1000年に一度というような低い確率で発生する災害に対して、厳密な予防原則で対処するとき、高いコストをかけて低い生活の質を確保する結果になる。発生確率x災害被害額よりも、小さいコストで予防策を立てるという功利的原則が、採用できるだろう。原子力発電の事故のように災害被害額が大きい場合には、大きな予防のコストを投ずることが義務づけられる。
江戸時代の水防の原則のなかに大きな洪水に対しては対処しないという原則が採用されていたということが指摘されている。大規模な堤防を築くよりは、洪水の発生を受け入れるという原則である。この原則も「発生確率x災害被害額よりも、小さいコストで予防策を立てる」という合理主義に一致するのであって、自然と闘う西洋的なパラダイムに対して自然に順応する東洋的なパラダイムが優越するということの証明にはならない。
輪中(わじゅう)とは岐阜県南部と三重県北部、愛知県西部の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)とその支流域に存在した堤防で囲まれた集落のことである。大規模な水防ではなくて、小規模な安全圏を作ることでコストを小さくしている。バングラディシュで採用されている洪水時の避難所となる建造物も、小さいコストで対処するという設計思想が背景にある。
原子力発電所の事故の被害額を、発電施設の損害、廃炉のコスト、冷却等のために用いた消防等の活動、放射能の流失による健康被害、農業被害、農業が不可能になる等の損失、停電による損失、その他、原子力発電の通常のコスト、たとえば使用済み核燃料の処理費をまず計算する必要があるだろう。福島県の一部が、今後、数十年間にわたって農業のできない地域になる場合の被害総額を、補償し続ける等の措置を考えて、原子力発電の現実的なコスト・ベネフィット計算がなされねばならない。
事故がなかった場合でも、使用済み核燃料の処理費を、1KW時あたり1円というような計算をする。そのとき、処理施設の建設費や用地買収費は算入されているが、放射能が自然放射能と同じ水準にまで達するまでの10万年間のさまざまなコストは計算されていない。原子力発電を続行するかいなかを決定する場合には、その10万年間のコストも計算に入れるべきだろう。

2、予見可能性と責任
福島原発事故では「人災と天災が重なっている」という言い方がなされるが、人災には責任が問われ、天災には責任が問われないという前提が多くの人に認められている。「人災には責任が問われ、天災には責任が問われない」という常識の内容は、「予見し、回避することのできる害悪に関しては、それが発生した場合に、回避するという責任を怠った行為者は処罰される」という法理(通常責任論)が成立していると思われる。
「マグニチュード8までの地震に対しては技術的に対処することが可能であるように原子炉は設計されており、もしも今回地震がマグニチュード8以下であったならば、事故は起らなかった。想定外の自然災害が発生したのであるから、東京電力の法的責任は問われるべきではない」という抗弁が出されるだろう。ここからさらに「マグニチュード8以下の地震に対して安全という条件で、住民との同意が成立しているので、東京電力の住民の被害に対する責任は成立しない」という抗弁も出されるだろう。住民の側から見ると、地震・津波は天災、原発事故も天災という扱いになる。
ここで問題になることは「abnormal dangerには無過失責任」という法理を持ち出す前に、「今回地震がマグニチュード8以下であったならば、事故は起らなかった」という反実仮想の吟味を怠ってはならないということである。

  • a. 「緊急時に冷却水を循環させるべき発電機に対しては、特別な安全策が講じられてしかるべきである」という指摘に対して、東電側は「必要なし」と回答したという情報が流されている。
  • b. 海水の注入という緊急の措置それ自体の安全策が不十分であるという指摘。(昨年『赤旗』に掲載されたという)
  • c. 要員の安全に関して親会社の社員に対してはマニュアル通りの安全策がなされるが、子会社の社員は除外されているという指摘。(東海村事故以前から、板倉聖宣なども指摘)
  • 福島原発事故の被害は、地震の規模が「マグニチュード8以下であったとしても発生しえた」とすれば、通常責任論のもとで「想定外の地震規模」を理由とする抗弁はなりたたなくなる。

 ヴァルディーズ(Valdez)号事件(1989年)以後、「abnormal dangerには無過失責任を適用する」という法理は、ほぼ確立されている。原子力発電の事故に関しては、「過失がなくても責任が成立する」、「不可抗力の抗弁の成立を認めない」と言うのが、実務上の対処であるが、「いかなる過失がなくても責任が成立する」、「いかなる不可抗力も抗弁の根拠とならない」という原則は不合理である。そこで法理上は、abnormal dangerに対しては、「完全予見の義務、もしくは完全注意義務が成立する」と原理が修正されるというのが、適正な解釈であろう。
福島原発でも、宮古市田老地区の防潮堤では三陸津波(1896年明治三陸津波1933年昭和三陸津波)と同程度の災害に対処できるという設計の目的が立てられていただろう。防潮堤の場合、津波で破損しても、それは津波の災害にさらに別の災害を積み重ねるものではない。原発の場合、津波の被害によってさらに放射能災害という別の災害を引きおこす。どうして「三陸津波(1896)の二倍程度の災害に対処できる」という設計の原則が採用されなかったのか。通常、建築物では「予想される衝撃の二倍の衝撃に耐えられる」という安全基準が採用されている。予防のコストが過大・過小にならない規模を算出することによって安全率が設定されている。
「abnormal dangerには無過失責任を適用する」という法理のもとで、「予想される衝撃の二倍の衝撃に耐えられる」という通常の安全基準を設定することは、最低限度、必要であったのではないか。
2007年新潟県中越沖を震源とする新潟県中越沖地震が起こった。柏崎刈羽原子力発電所内の運転中の全ての原子炉が緊急停止し、火災、計器の破損などの事故があった。この事故については国際機関(IAEA)の査察(最初、東電は拒否したが新潟県知事の要請で受け入れた)では、比較的軽微の被害という報告が出た。この時、すでに「想定外」の事態がいくつか発生しており、そのデータを基にして原発の安全性を徹底的に吟味すべきだった。

3、特別保護区としての電力・原子力
原子力発電の運営は、通産省で行い、安全管理は科学技術庁の管理という分権体制が、行政改革によって、科学技術庁が廃止されて、経済産業省に一元化されたということが、監査の原則(専門性と外部性、参照、加藤尚武「専門職の倫理」(京都大学学術出版会「倫理への問いと大学の使命」2010年所収))に反する結果になっている。しかし、行政改革以前の段階で、監査の原則(専門性と外部性)が有効に機能していたかどうかには、疑問が残る。
橋本内閣時代(1996-98)に私は政府の原子力関係の委員を務めていた。ある会合で、われわれ委員の左に監査される側の人が並び、右に監査する人がならぶことがあった。左側の一人が「Aです。京都大学K研究室の出身です」と言った。右側の一人が「Bです。京都大学K研究室の出身です」と言った。
学術会議で、私はエネルギー関連の委員会に属することになったが、工学系の委員は例外なしに原子力発電開発派である。福島原発の事故で、多くの原子力の専門家がテレビ番組に動員されたが原子力発電反対派の顔と声はないようだ。
日本の原子力発電に関する専門家は、推進派と反対派に分かれていて、推進派は「原子力発電の廃止」という帰結に導かれるような論点は、すべて賢明に排除して、決して語らない。反対派は、あらゆる論点を「原子力発電廃止」という結論に結びつける。このような状況の中では「専門性と外部性」を兼ね備える人材を見つけても、議論は常に不毛に終わる。
そうした状況のなかで吉岡斉「原発と日本の未来」(岩波ブックレット2011年)はやや異色の論点を出している。吉岡氏の主張のもっとも重要な点はつぎの引用文で示される。

 「日本政府は原子力発電事業を長年にわたり偏愛し続け、過保護状態に置いてきた。しかし日本の原子力開発利用体制が整備された一九五六年から半世紀以上が経過したにもかかわらず、今も原子力発電事業は政府の手厚い介護を受け続け、現在に至っているのである。それもただの過保護ではなく、巨大な破壊力を抱えるという重大な弱点をかかえる事業に対する過保護である。早急に独り立ちさせるべきである。つまり政府による核不拡散・核保安関連規制と安全規制を堅持しつつ、政府による電力会社に対する原子力発電の経済的コスト・リスクの肩代わりを根こそぎ廃止するべきである。そして電力会社が原子力発電に関わる全ての経済的コスト・リスクを負担するという条件のもとで、電力会社が自由主義市場経済の中で、会社としての将来の存続をはかっていくために、自主的に原子力発電事業に対する取り組み方を決定できる仕組みを構築すべきである。」(吉岡斉「原発と日本の未来」岩波ブックレット2011年、8頁)

  いわば原子力完全民営化論である。私は、この主張の中には、原子力の得失を完全に算出せよという主張を含んでいる点で支持したい。実際に民営化するか、否かの決定を下すまえに、十万年の後に使用済み核廃棄物の放射能が自然状態と同一水準に達するまでのすべての得失を計算すべきである。

4、国家間パワーシフトとしての原子力産業
日本の原子力発電が開始されるとき、たとえば岸信介の脳中にあった狙いは、平和的なエネルギー資源の開発だけではなかっただろう。原子力の平和利用の技術を日本が保持することによって、将来軍事力として原子力を開発する伏線を引くという狙いがあっただろう。原子力の平和的な利用技術を保持するということだけでも、国際間のパワーシフトの中では重要な意味をもっている。たとえばアメリカに対して日本が核兵器の開発を進めるという姿勢を示すことは、有効な圧力になるだろう。  
まったく異なった視点から、原子力発電を評価することもできる。核兵器の廃絶にいたる唯一の確実な道は、核兵器として利用可能なウランをすべて発電で使い切ってしまうことである。世界のウラン需要量は6.7万トン(2006年)、世界のウランの確認埋蔵量は547万トン(2007年)とされている(経済産業省「エネルギー白書 2010」、215頁)。82年でウランは枯渇する。世界中でさらに原子力発電を行えば、もっと短期間でウランは枯渇する。

参考文献
加藤尚武「チェルノブイリ事故はどうすれば防げたか」NHKブックス『先端技術と人間』(2001)所収
加藤尚武「日本的災害観のあやまり」丸善ライブラリー『現代を読み解く倫理学』(1996)所収
加藤尚武「事故のなかの人間の顔」講談社学術文庫『進歩の思想・成熟の思想』(1997現在絶版)所収


災害論序説――その2、原子力発電事故とリスクコミュニケーション

 科学技術が人間に危害を加える事例が深刻化している。水俣病(1956)、ボパール事故(1984)、チェルノブイリ原子力発電所事故(1986)、福島原子力発電所事故を見れば、「科学技術は人間に恩恵・進歩をもたらす」ことを無条件に信じてはならない。視野を少し広く取れば、侵襲をともなう医療行為、医薬品のいわゆる「副作用」、核廃棄物・有害廃棄物の処理など、も含まれるし、『自動車の社会的費用』(宇沢弘文1974)やポール・ポースト『戦争の経済学』(山形浩生訳basilico2007)も、コスト・ベネフィットの厳密な算出が従来無視されてきた領域に、「それで本当に人類の得になるか」という問題を投げかける。
問題の古典的な原型は、カント『永久平和のために』のなかに描き出されている。「戦争をすべきかどうかを決定するために、国民の賛同が必要となる(この体制の下では、それ以外に決定の方途はないが)場合に、国民は戦争のあらゆる苦難を自分自身に背負い込む(たとえば、自分で戦う、自分自身の財産から戦費を出す、戦争が残した荒廃をやっとの思いで復旧する、こうした災厄をさらに過重にするものとして、最後になお、平和であることすらも苦々しくさせるような、決して完済にいたらない負債を自分に引き受ける、など)のを覚悟しなければならないから、こうした割りに合わない賭け事をはじめることにきわめて慎重になるのは、あまりにも当然のことなのである。」(宇都宮芳明訳、岩波文庫32頁)
カントは、「1、戦争・原子力発電をすべきかどうかを決定するために、国民の賛同が不可欠である。2、国民は戦争・原子力発電のあらゆるコストを背負い込む。3、未来世代にも負担を強いる負債・核廃棄物を引き受ける」ということを指摘しているが、戦争・原子力発電の利益が、国民に及ぼされるか等の観点も必要であろう。
カントは情報が完全に開示されていて、戦争をするかしないかの決定を国民が行うというモデルを描いているが、実際には戦争のコストが開戦時に分ることはほとんどない。

1、楽観的情報と悲観的情報
情報を与える側は楽観的な情報を与えようとするが、情報を受ける側は悲観的な情報を必要とする。放射線被爆を受ける可能性については、最悪事態を知ってお置く必要があるからである。
あらゆる作戦の基本原則は「最悪事態の回避」であり、特に作戦の初期段階で最悪事態の回避に成功するか否かは、作戦の成否を決定する。作戦の指導者は「最悪事態」を明確に認識していなくてはならない。しかし、国民に対しては「最悪事態を意識させないこと」が、しばしば情報提示の目標になる。それは、パニックを回避する、作戦への支持(同意)率を高めるという理由で正当化される。
福島原発事故の場合、政府の発表の際には、「原子炉の圧力容器のメルトダウン」を連想させる言葉を絶対に使わないという打ち合わせをして、官房長官が記者会見に臨んだという可能性がある。その他「放射能の汚染が高くなって、原子炉冷却作業が不可能になる」という最悪事態についても、表現を回避してきた。この事故の最悪の結果がどのようになるかについては、報道陣もまた表現を控えている。各報道局は、「札付きの原子力反対論者」を登場させないという自粛措置を採った可能性がある。官民を挙げて、虚偽の情報は流さないが、予想される最悪事態については「まったく分らない」という報道姿勢を採るという点で、一致していた。
たとえば建屋の爆発が起ったとき、「水素爆発の可能性がある」という推測は、多くの専門家が知っていたと思われるが、テレビの報道でも「本部の発表では、調査中で、何が燃焼した爆発であるか分らない」という情報を示すにとどめていた。これは本部の側では、「原子炉本体(圧力容器および格納容器)の爆発という最悪事態ではない」と発表すると、それが虚偽になる可能性があるので「分らない」と発表したのだとすれば、実際に「原子炉本体の爆発」の可能性が存在すると本部が信じていたことになるので、情報を受け取る側には、不安を与える。最悪事態は表現しないで「分らない」と表現するという情報作戦は、たしかにパニックを起こさせないという効果をもたらしたが、最善の情報作戦ではない。作戦本部では「原子炉本体の爆発ではない」ことを、何らかの形で確かめたはずであるから、その時点で「原子炉本体の爆発ではない」という報道をすべきであるにもかかわらず、それが行われなかったのは何故かという疑問が残る。
医療上のインフォームド・コンセントでは、遺伝子治療の際のベクターに「生ウイルス」(安全化のための遺伝子変容を逃れてしまったウイルス)の混入の場合、アデノウイルスの症状の初期の段階で遺伝子治療を停止するという措置をとると患者にあらかじめ告知しておくという態度が要求されている。一般的に副作用の告知はすべて同じ方式が採用できる。この場合には、副作用が予見可能である、副作用の原因となる薬剤の使用を避けても直ちに致命的事態にはならないという条件がある。
福島原発事故では、予見されていない副作用(副次的結果)が次々に発生したかのような印象を与える。ことがらの本性として、予見不可能であったとはとうてい思えない。すると「発生しないかもしれない副作用については、事前に告知しないで、副作用が現に発生してから告知する」という情報開示の方針が用いられている可能性がある。後から虚偽の報告をしたと非難されない限度内で、不利益な情報は極力開示しないという方針である。
危険を予見していたが回避できなかった場合に、「危険が発生したら開示するが、発生しなければ開示する必要はない」という方針の下では、危険を予見できなかったから回避できなかったという印象が、一般国民の側に生まれることは避けられない。

2、「もんじゅ事故」(1995.12.8)の際の情報方針
日本の原子力業界は、「もんじゅ事故」の際の「ビデオ隠し事件」で非常に高い授業料を払う結果になったので、情報開示の遅れや情報の改ざんが行われないように、厳しく自らを律するという態度を身につけてきた。福島原発事故の場合も、もんじゅの教訓を生かすという姿勢を持っていたことは確かである。
もんじゅの「ビデオ隠し事件」というのは、当局(動力炉核燃料開発事業団、略称、動燃)が、ナトリウム漏出事故の1分と4分のビデオを公開し、公開時にはそれ以意外にビデオは存在しないと公表したのに、実際には二本、合計15分のビデオが存在していたという事件である。
記者会見の時の発言には所長・副所長の側から「空調ダクトに穴が開いていて、刺激的な映像だと思った。一般の人に説明なしに公開すれば、誤解や先入観が入り、ちまたのうわさで広がると思った。隠そうとする意図はなかった」、「視界が悪く、配管の漏洩個所が映っていない。事故を正確に把握できない映像で、公開する価値がないと思った」などという発言(緑風出版編集部編「高速増殖炉もんじゅ事故」緑風出版1996年、27頁、30頁)があった。情報を公開しても正しく理解されないおそれがあるので、情報の一部を編集して提示したという説明である。
この際「正しくない理解」とは、もんじゅの開発計画そのものを否定するような論点に結びつく理解だといっていいだろう。このときの所長、副所長は、そう信じることを不正であるとはみじんも感じてはいなかっただろう。「お家の大事である。誤解をまねく情報は開示してはならない」という判断は誠実な忠誠心の発露であると自己認識していたと思われる。ビデオを編集した係員に口裏を合わせるように指示した時ですら、悪意ではなかったと言ってよいだろう。
この私の判断を裏付けるのは、動燃の総務部次長で「ビデオ隠し事件」内部調査チームの一員であるN氏(49歳)の自殺という出来事である。遺書には「ビデオ編集の件が事故から事件に変えた最大の要因である」(同書40頁)と書かれていた。
偶発的な外部原因(たとえば地震、津波)から事故が起る。ここには故意の要素が全くない。ところがそこから発生した事態の報告の仕方(報告を遅らせる、資料を改ざんする)は故意によるものであって、もんじゅ事故は「ビデオ隠し事件」のために、事故から故意の情報改ざん事件に変質してしまった。
その背後にあったのは、もんじゅ計画そのものを否定しようとする外部の批判的な意見に有利になるような情報を提示してはならないという方針であった。

3、情報の三つの形
医療上のインフォームド・コンセントの場合には、情報のあり方は、医師が業務を遂行するのに必要な情報、患者が合理的な選択をするのに必要な情報、患者が不合理な選択をしたり 、心理的に安心をえるための情報という三種類に分かれると言われる。決定を要するのは外科手術をするかしないかというような、リスクが特定の個人だけに及び、そのリスクを含む行為に個人が同意するかしないかが問題となっている。
原発事故の場合、まず、当局(電力会社、保安管理団体、政府など)が、住民の安全策(被曝防止)という業務を遂行するのに必要な情報がある。次に、住民が合理的な選択をするための情報がある。避難勧告に応ずるかどうか。食糧等の備蓄をするかどうか。原子力発電の継続を支持するかどうか。さらに、住民の不安に対応するようなさまざまの情報がある。
住民の安全策としては、想定できる「最悪の事態」を明確に告げる必要がある。「最悪の事態」を告げれば、安心感を与えてパニックを防ぐことが不可能になるかもしれない。合理的な選択のための情報を与えれば、原子力発電反対派に有利になってしまうかもしれない。しかも、あらゆる情報が正しく理解されない可能性がある。とくに反対派の影響力が強い場合には、どのような危険でも誇大に評価される。
放射能を通常値以上には含んでいない野菜、放射能が通常値を超えて含まれているが健康被害を引き起こさない野菜、放射能が通常値を超えている野菜のどれを選ぶか。放射能を通常値以上には含んでいない野菜を選ぶことが可能であるのに、放射能が通常値を超えて含まれているが健康被害を引き起こさない野菜を選ぶ合理的な理由はない。
選択というのは、選択肢が辞書的に配列された場合にのみ合理的である。選択肢が、単一の数値で価値づけられている場合は、その代表的な事例で、買い物の場合には、価格として表現されている。従って、合理的な選択のための情報は通常は数値情報である。しかし、すべての野菜の放射能の数値を発表すれば、消費者は最小の放射能を含む野菜を選択するのが合理的である。その結果、いわゆる「風評被害」といわれている現象が起るが、これは合理的な選択の結果である。

参考文献
加藤尚武「原子力問題に関する国民的な合意形成は可能であるか」日本学術会議「学術の動向」2010年11月号


災害論序説――その3、復興論 災害からの立て直しについて

 災害からの復興というと、元通りの生活形態を再現させる消極主義、防災強化都市を開発する積極主義まで、再建基本案をどうするかという問題と、公共的な資金援助をどこまでするかという問題が、絡んでくる。「自然災害に対しては不幸な被災者はその損失をすべて自己責任で負うべきである。公共財の復旧は公共的な資金で行うべきだが、私的財産の復旧に公的資金を投入すべきではない」という消極主義が、日本政府のすくなくとも一時期の公式見解である。公共機関は私事に干渉してはならないという自由主義に対応するのは、災害は私事であるから公共機関の援助は受けるべきでないという自由主義であろう。これに対して「個人が自己責任によることなく偶発的に外部からの影響で受けた被害はすべて公共資金で補償すべきである」という全面補償論がある。犯罪の被害者の救済にも、この考え方は使われるが、公式にこの考え方が採用された例はない。個人が偶発的に外部から受けた被害に対しては、生活の自立再建を援助するための部分的な補助が公共資金からなされるという制限的援助論が、おおむね支持されている。
東日本大震災の場合、全面補償論でも不十分であるという議論があっても当然である。たとえばある人が1000万円の家を失った。全額自己負担すべしというのが、自由主義的消極主義である。200万円までは公的に資金援助しましょうというのが、制限的援助論の立場ある。全面補償論の立場であるなら、1000万円補償すると言うだろう。ところが古い町並みを復旧するのではなく、まったく新しい防災型都市を創造するためには、失われた1000万円の家の代わりに、2000万円の家を建てなくてはならないと仮定しよう。そのために公共的な資金を投入することは許されるか。「阪神淡路大震災からの復興も制限的援助論の限度内で行ったのだから、東日本大震災にも同様の扱いが適用されるべきである」という議論が出されるのではないかと思われる。

1、安全と安心
「安全・安心」というように二つの言葉が連なって、災害対策や技術の社会的な利用の条件であるかのように語られるのは、日本だけの現象で、諸外国には例を見ない。これは正式の法律文書には登場せず、科学技術に関連する官庁や官庁主導の報告書などに使われている。
官庁用語として、あたかも「安全を保証することは、国家の国民に対する完全義務であるが、安心をもたらすことは不完全義務である」という前提が存在するかのような言辞が、ときどき見られはするが、日本国憲法の基本的な立場は「国家は国民に対して、いかなる完全義務も負わない」という立場であると思われる。「安全・安心」は、政府の国民に対するリップサービスなのだろうか。  
文書としては文部科学省のもとに作られた「安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会」の報告書(2004年4月)が、最初の事例ではないかと思う。日本学術会議「学問の動向」(2009年9月)に「工学システムに関する安全・安心・リスク」という特集があり、多くの文書が文献として指摘されている。
安全と安心の関係について、「安心とは安全でありかつ安全であると信じられること。信じられるとは、理解できるか、説明内容ないし説明者が信頼できること」(松岡)猛「安全・安心・リスク」(日本学術会議「学問の動向」2009年9月号11頁)という定義が提案されているが、一応、まず客観的に安全が保証されていて、安全についての主観的確信が成立していることというのが、この定義の核心であろう。客観的安全(技術)+主観的安心(リスク・コミュニケーション)という設定である。
これとは違う安全と安心の関係もある。伝統的な日本仏教では客観的安全は保証されないが、主観的安心(安心立命)は達成可能である。情報操作によって客観的には高度のリスクを含む危険な状態が、比較的安心してうけとめられる場合もある。たとえば福島原発事故では「圧力容器の底にたまっている溶けた燃料が圧力容器の底を突き破る。1〜3号機の原子炉内の放射性物質はチェルノブイリの場合をはるかに上回る」と16人の専門家が指摘(2011年4月2日読売新聞)している。日本の原子力工学を背負ってきたハイレベルの専門家の警告であるから、これが伝わればパニックが起っても不思議ではない。
技術が保証する客観的安全それ自体のレベルを高くし、より高い安全率を設定することが「安心」であるという安心概念もある。たとえば「三陸津波(1896)と同程度の津波に耐えられる設計」では安心できないから、「三陸津波(1896)の二倍程度の災害に対処できる」という設計の原則が採用されなくてはならないという要望が出てもおかしくない。安心とは、技術的な安全のレベルを、従来よりも高く設定することであるという客観的な安全のなかでもレベルの高いものを安心のレベルと呼ぶのである。

2、積極主義の必要
元通りの生活形態を再現させる消極主義では、被災者の安心は生まれない。防災強化都市を開発する積極主義を採用しなくてはならない。この2011年の津波が1000年に一度の確率で発生するものだとしても、再建される生活空間が元通りの危険度であることは被災者には受け入れがたい。「次の1000年間で起る津波」が、明日起る可能性もゼロではないからである。
阪神淡路大震災のときには、再建案は消極主義が採用された。比較的低いコストで短期間に生活を確立することが、政治的な課題と見なされたためである。
地球のこれからの歴史の中で大地震は発生する。しかし、地球の表面では日本のように地震の多発地帯とほとんど地震の発生しない地域とがある。
日本全体の1000年単位の安全策を考えると、将来的には外国の地震の少ない地域に工場、情報の集まるところなどを設定して、日本の全国土が災害に見舞われたときの疎開先を用意しておかなくてはならない。日本の国土は、拡張することができないだろうが、日本人が長期的に安心して使うことのできる疎開先が必要である。
東日本大震災に対する再建案として、高度の防災都市を建設する必要があるのは、そこが他の地域で大災害が発生した場合の疎開先になるからである。今後1000年間の日本国民の安全な生活を確保するためには、東北日本に超安全都市をいくつか作り出す必要がある。

3、大規模開発と私的所有権
未来の世代に超安全都市と美しい景観を残そうとするとき、それは個人の私有財産に関して公共的な価値にもとづく変更を加えるという形になることが多い。広い地域や景観そのものが、私有財産の集合から成り立っている。
私有財産が公共的な価値を持っているときに、公共機関はその私有財産に対して強制的な関与をすることができるかという問題に関しては、他者危害原則harm-to-others-principleが成立するという基本的な原理がある。「個人のその財産が他人に危害を加える可能性がある場合に限って強制的な措置をとることが許される」と言っていいだろう。そうでない場合には、すべて同意原則が支配する。「個人の財産に関するいかなる変更も、所有主の同意に基づいて行われなくてはならない」という原則である。
しかし、「ゴッホの絵<アイリス>の所有者が、死ぬときには自分の棺にいれて、ともに燃やして欲しい」という遺言をした場合、この焼却を阻止する公的な干渉は正当化されるかという問題がある。ゴッホの絵の価値について、所有主の権利とは、通常 1、自由処分権であり、その所有物を自由に処分することができる。2、対価を得る権利であり、その所有物が、破損を受けたときの損害賠償、売買されたときの対価をうけとる権利をもつ。ゴッホの絵の場合、私有財産であるから、所有主は自由処分の権利をもつが、それを焼却するならば、ゴッホの絵の持つ公共的な価値を破壊することになるから、国家は個人に干渉して、焼却からゴッホの絵を守らなくてはならない。
非常に多くの国家で美術品の海外持ち出し禁止措置を採っている。これも自由処分権の制限である。
 公共的な価値の高い私有財産に関しては、所有主の自由処分権は制限される。所有主は、その作品の価値を保護すべき義務をもち、保護することができない場合には、売却しなくてはならない。国家は買い取りの請求に応じなくてはならない。場合によっては、国家は買い取りの権利をもつ。ドイツでは古書に関して国家の買い取り権が認められている。
区画整理、市街地の再開発の場合に、同意原則を厳密に解釈すると、すべての所有主から同意を得なければならないが、所有主が不在や居所不明の場合には、同意を得ないで着工できるための原則を作るとすれば、自由裁量権を制限するが、対価の取得権は制限しないという原則になる。
病院で保存している患者の身体組織を実験用、医療用などに利用するときに、所有主の同意が、所有主の不在・居所不明の場合には、倫理委員会が承認すれば、その組織を利用できるというルールはすでにできている。この場合には「対価は支払わない」という原則があるので、対価についての処理は不要である。
公共的な価値のある私有財産の利用に関して、同意原則を制限する仕組みのさまざまな事例を比較検討して、広い範囲にわたる開発のためにどのような具体的なシステムを設計しなくてはならないかを考えなければならない。

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