iPS細胞研究の倫理的問題について/児玉聡・伊吹友秀

成人の皮膚細胞などの体細胞に複数の遺伝子を組込むことにより、ES細胞と同等の分化機能を持つiPS(人工多能性幹)細胞を作る技術が、京都大学再生医科学研究所の山中伸弥教授らによって開発された[1]。ライフサイエンス研究におけるブレイクスルーと言える [2]。

iPS細胞によって「倫理的問題や拒絶反応のない細胞移植療法の実現が期待」されると言われる[3] が、ES細胞研究が抱えていた倫理的問題はどこまで克服されたと言えるのだろうか。以下ではクローンES細胞の倫理的問題と比較しながら、iPS細胞研究の倫理的問題を三点述べ、今後のiPS細胞研究を進めて行くうえで内閣府の生命倫理専門調査会などによる倫理的問題の検討となる可能性を示唆する。

第一に、ES細胞を用いた研究に比べ、iPS細胞研究は、素材の点でも、技術の点でも、容易になった。素材の点というのは、ES細胞研究では卵子や胚を入手する必要があり、それをどこから入手するかが問題になったのと比べて、iPS細胞研究では成人の皮膚細胞のように素材が簡単に入手できるということである。また、技術の点というのは、山中教授自身が述べているように、分子細胞生物学の基本的な技術を持つ科学者ならば、だれでもiPS細胞を作ることができるようになるかもしれないということである。この二重の意味で容易になったのだとすると、十分な研究規制を行なわなければ、容易に悪用される可能性があるということである。研究を無闇に規制する必要はないが、先手の規制を行なわなければ、韓国のファン教授の場合のように、大きなスキャンダルが起きると研究全体を止めることになりかねない。ライフサイエンスの健全な発展のためには、泥縄式ではなく、あらかじめ倫理的問題を検討し対応策を考えておく必要がある。

第二に、ヒトクローン胚を用いたES細胞研究では、再生医療目的の研究が容易に生殖医療に転用できるという問題があった。すなわち、研究目的で作成したクローン胚を子宮に戻すとクローン人間ができるという倫理的懸念があった。そのため、2001年のクローン技術規制法では、クローン胚を子宮に戻すこと(つまり、生殖目的でクローン胚を利用すること)が禁じられた。クローンES細胞研究の場合とは異なる仕方ではあるが、iPS細胞研究の場合も、理論的には、精子や卵子といった配偶子の作成等を通じて、生殖医療に用いられる可能性がある。だとすると、クローン技術規制法や他の生殖技術関連の規制と整合性のある規制を考える必要があるだろう。この点も含め、科学者や人文社会系の非科学者および政策立案者は、iPS細胞研究が今後われわれの社会にもたらしうる倫理的・法的・社会的問題(ELSI問題)に関して十分に議論しておく必要がある。そうしなければ、いたずらに市民の不安を引き起こすことになりかねないだろう。

第三に、ES細胞研究が持っていた大きな倫理的問題は、ES細胞を取り出すさいにヒト胚を破壊するということであった。ヒト胚の「道徳的地位」については通常の人間と同じであるとする見解、物と同じであるとする見解、人間と物の中間であるとする見解と意見が分かれるが、仮にヒト胚の「道徳的地位」が通常の人間のそれと同じだとすると、「ある人を助けるために別の人を殺す」ことになる。これがES細胞研究の大きなネックとなり、たとえばアメリカではブッシュ大統領が生命の尊厳の観点から連邦政府によるES細胞研究をストップさせる理由となった。

成人の皮膚細胞などの体細胞を使用するiPS細胞は、技術的革新によってこの倫理的問題を解決してしまった――より正確には、倫理的問題が「解決」したというよりは、この論点を丸ごと無用のものとしてしまった――ように見える。とはいえ、米国大統領生命倫理評議会が2005年の段階でつとに指摘しているように[4]、仮にiPS細胞がES細胞と全く同じ能力を持つ万能細胞であり、たとえばテトラプロイド(四倍体胚)凝集法[5] によって、少なくとも理論的には100パーセントiPS細胞由来のヒト胚の作成が可能だとすると、iPS細胞の「道徳的地位」は、ヒト胚と同じものと考えなければならない可能性が出てくる。iPS細胞が「生命の尊厳」を有する存在なのか、あるいは研究利用のために作成・廃棄することが許される存在なのか、という哲学的な問いは十分な検討を要するだろう。

上で述べたように、米国の大統領生命倫理評議会ではすでに2005年の段階でiPS細胞のような体細胞由来の多能性幹細胞ができた場合のことを想定して議論している。NIHも2007年9月の段階でiPS細胞の可能性と問題を論じている[6]。このような準備がなされていれば、研究指針の作成も比較的容易かつ迅速に行なうことができると思われる。

日本でも、基礎研究、臨床研究に関して行政ガイドラインの作成作業に入ると同時に、内閣府の生命倫理専門調査会などでただちに議論を開始し、iPS細胞の「道徳的地位」、臨床応用における安全性の評価、エンハンスメント利用(治療目的ではなく、長寿や身体能力増強目的での使用)の可能性なども含め、倫理的・法的・社会的観点から見た問題点を洗い出し、文明論的な検討も行ったうえで、大枠での指針作りに着手すべきである。繰り返しになるが、優れた科学技術が開発されても、それを適切に支援・規制する社会的体制がなければ、科学技術の健全な発展は危ういものとなるであろう。(了)

[1] 詳しくはJSTのプレスリリースを参照のこと。
ヒト人工多能性幹細胞(iPS細胞)の樹立に成功
http://www.jst.go.jp/pr/announce/20071121/index.html (H19.11.21)

[2] もっとも、iPS細胞が臨床研究で用いられるためには、発がん性の問題の克服など安全性の確立が必要である。また、再生医療等に関して、クローンES細胞と同じだけの役割を果たすかどうかは未知数であるため、当面は並行してES細胞研究も続けなければならないと思われる。

[3] ヒト人工多能性幹細胞(iPS細胞)の樹立に成功
http://www.jst.go.jp/pr/announce/20071121/index.html

[4] 米国大統領生命倫理評議会:ALTERNATIVE SOURCES OF HUMAN PLURIPOTENT STEM CELLS (2005) http://www.bioethics.gov/reports/white_paper/alternative_sources_white_paper.pdf
‘There would seem to be nothing to object to ethically if procedures were developed to turn somatic cells into pluripotent stem cells, non-embryonic functional equivalents of embryonic stem cells. Of course, if the dedifferentiation were pursued beyond (mere) pluripotency to the point of yielding a totipotent cell?in effect, a cloned human zygote?the moral status of such a cell would become a serious issue, as would the permissibility of using it either for reproductive or for research purposes. For a totipotent cell is, arguably, an organism at the unicellular stage, and a strong case could be made that the product is not a pluripotent stem cell but an embryo.’ (「もし体細胞を多能性の幹細胞――胚に由来しないが、胚性幹細胞と機能的に等価のもの(non-embryonic functional equivalents of embryonic stem cells)――に変化させる手法が開発されたなら、倫理的に反対することは何もないように思われる。もちろん、脱分化が(単なる)多能性に留まらず、全能性を持った細胞を生み出すところまで行くならば――結果的にこれはヒトクローン接合子である――、そのような細胞の道徳的地位は深刻な問題になるだろう。同様に、それを生殖目的あるいは研究目的で用いることが許容できるかどうかも、深刻な問題になるだろう。というのは、全能性を持った細胞は、明らかに、単細胞段階の生物であり、上記の手法によって作られたものは多能性幹細胞ではなく胚だと主張する強力な理由があると言えるからである。」) (本文51頁)
なお、この論点については、以下の論文でも詳しく検討されている。 Denker, H.-W. Potentiality of embryonic stem cells: an ethical problem even with alternative stem cell sources. Journal of Medical Ethics 2006 November; 32(11): 665-671.

[5] テトラプロイド(四倍体胚)凝集法とは、「キメラ胚形成法の一種であるが、テトラプロイドという(通常のデプロイド(二倍体胚)ではない)胚または細胞を補助的に用いることにより、テトラプロイドは胚外細胞(胎盤栄養膜細胞など)のみを形成し、生れてくるマウスの身体の形成には寄与しない」とされる (Denker, 注4の論文より)。そのため、もしこれがヒトでも可能であるとするならば、「ヒトES細胞は、その細胞株がテトラプロイド凝集法によって胚を形成することができないと示されないかぎり、潜在的なヒトと見なさなければならない」可能性がある(同上)。

[6] National Institutes of Health: Expanding Approved Stem Cell Lines in Ethically Responsible Ways (2007) http://stemcells.nih.gov/staticresources/policy/eo13435.pdf

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